のんびり行こうぜ、オレたちは
Text=Takayoshi “Yanmer” Yamamoto(HALE Surf & Sail_Enoshima)
「楽しんでいると、気がつけば“学び”が得られているような、そんな遊びを提供したい」
かのウォルト・ディズニーの言葉らしい。東京ディズニーランドをイメージしてみる。行ったことがないのでピンとこない。ピンときたのはウインドサーフィンだ。何より海や風が作りものではないのが最高だ。そこに人の思惑は入り込めない。それを受け止めようとする側には強い主体性が求められるが、だからこそ自由を感じることができる。楽しみながら“本当の自由”を知るには、ウインドサーフィンが一番だと思う。
「でも“本当の”という枕詞のつくものを手にするのは簡単ではない。ウインドには道具、時間、コンディションなど、クリアすべきことが多くある。さらにそこを越えて、プレーニングという快感を得ようと思えば、多くの失敗を重ねることも必要になる」
なんて、そんなことを言う人を信じてはいけない。ウインドサーフィンの魅力を知らないのだ。プレーニングという快感に縛られている彼は、プレーニングのできないコンディションやプレーニングができない人を、そしてそこにあるファン(Fun)を認めることができないのだ。
もっと狂信的な人もいる。「冬のホキーパ、クロスオフで4フィート以上じゃなければウインドじゃない」みたいな。普通の人にはほぼ意味不明だ。彼はチョモランマに登らなければ登山じゃない、みたいなメチャクチャなことを言っている。
ウインドサーフィンのいいところは、海という大自然をダイレクトに、しかも簡単に感じられることにある。その非日常体験は、コンディションやレベルによって変化していくものだから、決して日常には戻らない。つまり自由が果てしない。
「プレーニングなんて目指さなくてもいい。ゆるく海風が吹く午後にでも海に出てみるといい。気持ちいいよー」
信じられるのはこういう人だ。自由を限定することで不自由になっていないこういう人。彼はきっと思っている。のんびりウインドサーフィンするのも悪くないと。風を感じて、風に体を預けた状態で、ただ薄いボードだけを介して海の上を移動する。それはほとんど自然に同化するということで、そんなことができる乗り物はウインドサーフィンの他にない。
月に一度でも、年に一度でも、ディズニー・シーにでも出かけるつもりで、ウインドサーフィンに乗りに行ってみるといい。楽しみながら与えられるものよりも、求めて手にするものに価値があるとわかるはずだ。まあなんとなくかもしれないけれど。ウインドサーフィンは、実は分かりにくいそういうことをさりげなく分からせてくれるからイカしている。
プレーニングやチョモランマは、自然の無尽蔵なアトラクションのひとつであり、みんなにそれを強要するものではない。大事なことは自らを芯から解放することで、がっちりやることや苦労することではない。そのあたりを勘違いすると、歌いたくないのに歌わされるカラオケのような、つまらないことになる。
自分のペースで楽しんでいると、気がつけば一生モンの自分解放装置にカスタマイズされていくもの、それが偉大なるウインドサーフィンである。
なんとなくでも共感してくれた方、周りのことなど放っておいて、のんびり行きましょうね、ボクたちは。
─── 山本隆義(ハレ サーフ&セイル_江の島)
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