ウインドサーフィン・エッセイ_06

研ぎ澄まされたパーになれ
Text=Takayoshi “Yanmer” Yamamoto(HALE Surf & Sail_Enoshima)

Arthur Arutkin(FRA-1111)/ ⒸFanatic 2018_John Carter
Arthur Arutkin(FRA-1111)/ ⒸFanatic 2018_John Carter

ずっと沖を目指してきたような気がする。ここまでなら大丈夫か、明日はもう少し沖へ出てみるかと “臆病になり過ぎず、無謀を侵さず” のキーワードを心に留めて、ちっちゃな冒険を続けてきたような。

ウインドサーフィンで沖に出るとテンションが上がる。そこには期待だけではなく、不安も確実に混じっている。風を取り、薄い緑色の海面から濃い藍色の海面へと移動する。気をつけろ! 感覚が発する信号を受け取って、いったんボードを止めて振り向くと、普段は木を見て森を見ずの山の全景がぼんやりと見えたりする。

爽快だ。オレはだだっ広い海に浮かんでこの景色を眺めている。1枚の板とセイルとウェットスーツだけを介して、生身で自然とつながっている、などと思う。同時に、海の上にポツンと浮かんだ自分に、頼れるものがきわめて少なくなっていることも実感する。

再びセイルを引き込む。見渡す限りほとんど海という状況で、目標物を取れないままにプレーニング、進行風を受け続けていると、本当の風がどっちから吹いているのか、自分はアビームで走っているのか、クローズを上っているのか、そういう基本的なことがわからなくなってくる。

やがて頭が真っ白になる。と、突然スイッチが切り替わる。

セイル(風)の手応え、ボード(海)の足応え(?)などから何かをつかもうと、身体中の感覚がビンビンに覚醒する。そして、頭は真っ白なのに、微妙に、時に大胆に、自然に合わせて動く身体がある、そんな不思議な自分、不思議な瞬間に遭遇する。

それは初めて自転車に乗れたときに感じるハッとした瞬間に似ているかもしれない。でも両方を感じたことのある人ならわかるだろう。普段生活している陸の上での“ハッ”と海の上での“ハッ”では、それをなし得た後の驚きがまるで違う。海での“ハッ”は、非日常感、手にした能力の特異性、自分の中に広がる世界観というような点に、圧倒的なインパクトを有している。

生身で、しかも自由に海を走れるウインドに乗ると、そんな瞬間をダイレクトに、しかも頻繁に感じることができる。その瞬間がつながった特別な時間を感じることだって珍しいことじゃない。

だからずっとこうしていられるのだと思う。ここまでなら大丈夫か、明日は波のある海面にもトライしてみるかと、臆病でも無謀でもなく、身の丈に合ったエリアで、自分の知らない自分と出会うために、ちっちゃな、けれど掛け替えのない冒険を続けていられるのだと。

「ウインドの自由を、その根っこにある気持ちのいい部分を伝えたい」と僕は思う。でもダメだ。あんまりうまくいった試しがない。当たり前だ、とも思う(開き直る)。ホントに気持ちいいときには言葉など浮かばない。言葉を発するまでの回路は少々入り組み過ぎていて、その瞬間を解析できない。でもだからこそ、というか、その分、その代わりに、感覚がキラキラと研ぎ澄まされる。

そのときの感じを多くの人たちと共有したい。そのためにはやはり言葉と格闘しなければならない。少し憂鬱にもなるけれど、でも救いはある。僕にはひとつ信じていることがある。「ウインドは人類が発明した最高の感覚増幅器である」ということだ。言葉に詰まることは多々あろうが、話の種に詰まることはたぶんない。では、また。

─── 山本隆義(ハレ サーフ&セイル_江の島

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▶︎〈ウインドサーフィン・エッセイ_05 / あなたの自由を奪うもの〉
▶︎〈ウインドサーフィン・エッセイ_04 / 考えない人〉
▶︎〈ウインドサーフィン・エッセイ_03 / 目に見えるものに、たいして大事なものはない〉
▶︎〈ウインドサーフィン・エッセイ_02 / ふたつのリズム〉
▶︎〈ウインドサーフィン・エッセイ_01 / 目標などない方がまし、かもしれない〉