ビヨン・ダンカベック完全復活
2011年の百年王者
ビヨン・ダンカベック=ターミネーター=スピード・キング=百年王者。
ビヨンには数々の異名がある。1988年から1999年まで、12年連続でPWA(旧PBA)ワールドツアーのオーバーオールチャンプ(コースレーシング/スラローム/ウェイブの総合王者)だった彼は、ロビー・ナッシュに次ぐ二人目のスーパースターとして’90年代のウインド界を牽引した。
そのビヨンが座り慣れた総合王座を自ら退いたのは2000年、30歳のときだった。なぜだかはわからない。もしかしたらツアーにフル参戦し、すべての種目を戦うことに疲れたのかもしれない。あるいは当時スラロームやコースレーシングほどにはウェイブの評価が高くなかったことが、彼の行動を変えたのかもしれない。
ビヨンは2000年にはウェイブとフリースタイルに参加種目を絞り、2001年から2003年まではウェイブだけに集中した。
2004年からはスラロームに復帰し、2005年には再びスラローム王座に腰を据えた。その後も年間スラローム・ランキングでトップ3以内の成績をキープしていた。だが「物足りない」─── 百年王者は殊に得意種目であるスラロームでは常に王者でなくてはいけない。ファンの多くはそう感じていた。
2008年、39歳になったビヨンはスラロームランキング2位でシーズンを終えた。それは立派な成績だが、絶望的な成績であるようにも思えた。なぜならその年の王者がアントワン・アルボーだったからだ。
その年三連覇を達成したアントワンの艇速は、他を圧倒していた。ビヨンをも抜き去る速さがあり、同時にビヨンを抑え切る強さがあった。アントワンはその勢いのままに翌年(2009年)も四連覇を達成し、ビヨンは3位に順位を下げた。しかしその年、ビヨンにはもうひとつ大きな変化があった。前年までアントワンが所属していたスターボードに移籍し、セイルもセバーンに変えていたのだ。
一部では、ビヨンがチャンピオンボードを奪った、という声も上がった。だが違う。ビヨンはレーサーとして、さらに道具の開発者として認められ、請われて新たなチームに迎えられたのだ。
ビヨンのビヨンによる完全復活へのシナリオは、そこから本格的に動き始めた。2010年もアントワンに五連覇を許しはしたが、自らを中心としたボードとセイルの開発は着実に進んでいた。
そして2011年、6戦4勝(リザルト参照)。ビヨンはアントワンの六連覇を見事に阻止、6年ぶりにスラローム世界チャンプに返り咲いた。42歳、百年王者、完全復活、である。
それはビヨンだからこそ書けたシナリオだろうと思う。少なくとも若手や実績のない選手に真似はできない。選手はみな平等ではない。より良い条件を得られるのは、トップとトップになれると見なされたわずかな選手だけなのだ。そして上位と下位との格差は広がっていく。それは今も同じだ。人間社会でもそうであるように。
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